英国のみならず、アメリカやヨーロッパの製品や服装を語るときその修飾語として武器になるものに「伝統的な」というワードがある。歴史があり、長年変わらず同じ製法やモノづくりの思想を貫いていることを高らかに宣言するようなこのコトバ。メンズウエアの世界では「トラディショナル」という英語でも表現され、時には徳川家の印籠のようなパワーを放ってきた。
伝統的であることは、言い換えれば本格であり、高品質であり、時間の経過に浸食されないデザイン力を持ち合わせた、いわゆる“完成されたスタイル”を指し示している。‘60年代、日本がメンズウエアに目覚めたアイビールック勃興の頃から、この言葉が戦闘能力を持ち始めたようだが、その後はアメリカから英国、フランス、イタリアといった’‘80年代にかけて欧米追従のファッション・リソースを開拓してゆくにしたがって常にメートル原器のような便利な説得力を持ち続けて現在に至っている。
では、実際に「伝統的」と謳われたウエアやブランドが“完成されたスタイル”を供給し続けているかというと、はなはだ疑問ではないだろうか。「伝統的な」とは言いながら、古着などで旧来と現代のウエアと比べると、現代のものは非常に安直なものばかりだ。「伝統的な」と言いつつも、つくり手の都合のいいように仕立てられているウエアの実に多いこと。英国のブランドでさえ、誰が見ても今風なデザインを採りながら「伝統的な」と謳う。
もはや伝統などと言ったものはご都合主義に利用されるだけで、明らかに形骸化していことは間違いない。その理由のひとつには、「そんなことを続けていたら、競争に負けてしまう」という発想が浮かぶ。確かに非効率な製法、時間のかかる職人育成、コストの高い旧弊な原材料の使用はビジネス上の阻害要因として考えられる。しかし、いちばんの理由は「伝統的な」服作りは難しい上、世代替わりしていく人材はその継続に価値や理解を見出さなかったからだろう。
進化や創造、というアプローチは金科玉条のように思われる反面、旧来のものを熟慮なく否定してしまう。しかし、「伝統的な」というものは、実によく考えられたモノづくりがされており、一々に叡智が積み重ねられている。「伝統的であること」に愚直であり続けることは、思い付きの進化・創造よりも遙かにクリエイティブなのだ。