6月某日、ラトビア出身のメゾ・ソプラノ、エリーナ・ガランチャのリサイタルを聴いた。ビゼー「カルメン」、サン=サーンス「サムソンとデリラ」などの名作オペラ・アリアを始め、ブラームスやラフマニノフの歌曲など、彼女の非常に豊かなレパートリーが類稀な音楽性と技術で歌い上げられる。心を奪われるとはまさにこのことだ。シルクのように柔和で滑らかで、空気を含んだような歌声。ガランチャの技術は完璧と呼び声高く、稀代のメゾと言って過言ではない。だが、彼女の技術よりも強烈に心に訴えかけてくるものがあるような気がする。
音楽は時間芸術だ。演奏が終わってしまえば、絵や写真のように繰り返し楽しむことは出来ない。そして我々は長い長い余韻を受け取る。磨き抜かれた感性。表現力。美意識。それらがこの熱気に満ちた聴取に涙を運ばせ、彼女に惜しみない拍手を送らせているのかもしれない。
上手い演奏だけでは人の心は動かない。これは芸術全般、物作りについてもいえることだろう。ただ上手い絵よりも、心を惹きつける、良い絵の前で立ち止まり、一時を過ごしたくなる。映画、写真、料理、車、そして服。「本物」には対峙する者の心に動かす「力」を持っている。いまだ冷めやらぬ余韻に浸りながら、思いを馳せてみた。