仕事で着るためにスーツを購入する、という人はスーツ購入者(オーダーを含む)の約9割に及びます。就活においてはもちろん100%です。ビスポークの市場も同様のニーズで成り立っています。ネイビー系やグレイ系のスーツ・オーダーが大多数を占めることからもそれを裏付けることができます。
ビジネス・ウエアという前提でスーツを考えるとき認識しておかなければならないことがあります。それは、ビジネス・スーツは「お洒落着」とは目的もニュアンスも異なるということです。
かつて日本ではスーツを表現するときに「一張羅(いっちょうら)」という言葉がよく使われていました。所有している服の中でもっとも上等で特別なものという意味で、それほどスーツは“非日常性”を持った服装として捉えられていました。つまり、ビジネス・ウエアであると同時に「お洒落着」としての役割も多分に担っていたため、「さあ、スーツを着てどこへ行こうか」といったハレ(ハレとケのハレ)の存在でもありました。しかし、休日を除いてスーツで通勤する現代のビジネスマンにとって、それが高額な投資が必要なビスポークであっても、「お洒落着」という役割よりも「パワー」や「地位」、「対人コミュニケーション」を担う“日常”の服装であることは疑いの余地がありません。
まだスーツに慣れ親しんでいない若い世代の人たちによく見受けられるのが、こうしたビジネス・スーツが持つ規範やバリューに気づかず、「遊び着」あるいは「お洒落着」を全面に打ち出したスーツ選びをしている点です。彼らのようなスーツを着る機会がなかったフレッシャーズならいざ知らず、洋服業界にもビジネス・スーツを「お洒落着」「遊び着」として認識している人が意外に多いことにも驚かされます。オフの場面でスーツを好んで着る人やアーティストのような職種の人たちが、「お洒落着」として趣味性の高いスーツを選ばれるケースは、ビスポーク・テーラーとしては喝采を贈りたいところですが、ビジネス・スーツと名打って差異化をコンセプトとしたトレンディなスーツを商交渉や折衝、プレゼンテーションを仕事とするビジネスマンにお作りするのはいかがなものでしょうか。
では、本質で語られるべき「ビジネス・スーツ」とはどんなものなのか。時代の変化や流行に左右されないカットとスーツとしての仕立て品質を持ったものと断言できます。ましてやそれに反して、流行という販売促進のために毎年繰り返される、新奇性を狙ったシルエットやディテールの変更などは「ビジネス・スーツ」の範疇ではまったく必要ないものと言えます。言い換えれば、「ビジネス・スーツ」は形状として完成し尽くされているものを選ぶべきなのです。バタク・スーツの下敷きとなっている、英国で考案されたドレープ・スーツは現在でも最新であり、決して過去のものではありません。それは、仕事を成し遂げた自信がみなぎる男性、自らに力で名声や地位を手中にした男性にふさわしい雰囲気を完成させます。それとは趣が異なるサック・スーツは合理主義的な発想をカタチにしたビジネス・ツールと言えます。洋服選びに無駄な時間を割きたくない、功利的なビジネスマンにふさわしく、誰が着ても仕事のできる男という印象づくりを上等なレベルで補完してくれます。
あくまでも「ビジネス・スーツ」は着る人の人格や価値を高めるものであり、一過性の気分や流行りで選ぶものでなく、洋服だけが着る人を差し置いて目立つべきではありません。働くことが大好きで、働くことで人生や成功を満喫し、掛け替えのない人脈や出会いを創っていく。そんなビジネスの場面で礼節をわきまえながら、かつ輝く洋服こそが真の「ビジネス・スーツ」であると考えます。