日本人は「老い」に対して、概ね後ろ向きの傾向があるようです。たとえば、身体の衰えを嘆いたり、体験や挑戦を叶わぬものと決めつけたり、新しい変化に端から背中を向けてしまったりしていませんか。せっかくオトナのいい雰囲気をお持ちなのに、成熟を否定し、未熟さを若々しさであると誤解し、年輪のように積み重ねてきた風格を台無しにしている人もいらっしゃいます。思うに、老いの始まりはそれまでの生き方がスタイルとして完成する段階であるべきです。スーツをお仕立てになるシニアのお客様と接しているとそれを実感せずにはいられません。定年を機に職場を離れた方、会社を離れ、自由の身になって新たに事業を起こした方など、それまでの職場環境や人間関係とは異なる舞台で新しい自分のスーツを誂える。そこには、ご自身の趣味性と円熟した自身のキャラクターがダイレクトに反映されるものです。別の言い方をするならば、スーツがいちばん似合う年代になっていることを無意識にご本人が楽しんでいらっしゃる。同時に、大概のお客様は一歩も二歩も引いた立ち位置からスーツを見ています。だから、着ているものを特定のファッション・ムーブメント(流行)に当てはめられることの気恥ずかしさも承知していらっしゃいます。若い人は自分に足りないものを服装で補おうとします。流行りであったり、派手さであったり、奇抜さであったり。でなければ、身だしなみの土俵から逃げ出して子供のような格好を選択してしまうものです。一方、円熟したオトナに限って言えば、洋服に助けを借りなくても自身の存在感や説得力で人生と渡り合うことなど難しいことではありません。スーツはもちろん、ビスポークテーラーもお客様のコントロール下に置いてしまいます。それは、スーツやテイラードウエアに詳しいからではありません。年齢を積み重ねた結果、洋服に対する独自の美学を創り上げているからです。ところで、平日の昼時においしい料理屋で、定年は超えているであろう、初老の男性に出くわすことがあります。男性は着こなしがキレイなスーツを着て、昼からお酒を飲みながら食事をしています。その姿からは、仕事をさぼっている会社員のようには見えません。もちろん、企業戦士のような厳めしい雰囲気もありません。「老い」の自信のようなものが漂い、身体の節々からリラックスしたオーラを発しているように見受けられます。そういう円熟の域に達しているシニアには、私どもが標榜しているしなやかなドレープスーツがお似合になると確信しています。時に格好の良い初老の男性を、街で見掛けることがあります。良い仕立てのスーツを着たその姿からは、素敵な人生経験の足跡が垣間見えて来そうです。なぜなら、スーツというものは着る人がどんな歳の取り方をしてきたかを如実に表してしまうからです。年齢を重ねることで、スーツとともに着る人の持ち味や雰囲気ができあがって行くのです。だからこそ、完成の域に達したシニアのお客様のスーツを手掛けさせていただくことに、私どもは歓びと誇りを感じざるを得ません。