20世紀のアーティストあるいは職人の写真を観ると、スーツをさりげなく着ている人物をたびたび見かけます。ピカソやダリ、コクトーやヒッチコック・・・。Think Differentな彼らの服装の裏側には、どのような美意識が横たわっているのか。表現者たちが、なぜ社会性の象徴でもあるスーツ・スタイルを敬愛しているのか。2018年に公開された映画「ファントム・スレッド」を手掛かりに表現者たちの美意識を読み解いてみたいと思います。映画の主人公ダニエル・デル=ルイスが扮するのは、ロンドンの名のあるドレス・メイカーのアーティストです。生活のすべてをドレスづくりにささげる、いわば仕事人間。創作作業のリズムを乱すものは、些細なことでも機嫌を損ねては激昂します。ステレオタイプのアーティストとして描かれていますが、ドレスの採寸や仮縫い、試着で顧客がハウス(メゾン)を訪れて接客する際も、また裁縫作業をディレクションする作業中も、必ず彼は整えたテイラード・ウエアに身を包んでいます。映画の舞台は’50年代のロンドン。’60年代初頭の男性服におけるミニマリズムが流行する前夜です。ビクトリア調末期から続くピューリタニズム的エレガンスの最終地点と位置づけられる英国のスーツ様式も、大衆文化へとひた走る社会変革の下、一気に引き算の装いを加速させていきます。主人公が着る’50年代のスーツやジャケットを凝視してみてください。その輪郭のゆるい感じにお気づきでしょうか。カチッとした堅い仕立てと言うよりも、女性服にも通ずるような「柔らかい雰囲気」があります。柔らかいと言っても、後年流行したイタリアのソフト・スーツとは異質の、英国仕立てらしいマナーがあります。この劇中の衣裳は、いわゆるイングリッシュ・ドレープ スーツであり、「アンダーソン & シェパード」が考案したソフト・テイラーリングによる技法で仕立てられています。服地の持つ“たわみ”や“うねり”を活かしたテイラーリングがドレープ・スーツの技法の中核にありますが、それはいわゆる構築的な英国式スーツとは違う、ソフトさの中に表現される優雅さや華麗さを狙ったものです。つまり、仕事着ではない=遊び着の持つ解放感をスーツの枠組みの中で表現していると思われます。主人公にとって女性のドレスづくりは生業ですが、人生を賭けた真剣な「遊び」と言い換えてもいいほどで、劇中「顧客(伯爵夫人など)の満足よりも自分の仕事に対する納得を優先すべき」と彼は吐露しています。主人公の服装も同様に、他人にどのような印象を与えるかが優先されるのではなく、自分自身をどう高揚させるか、創作のために己をどう演出するかが重要なのです。冒頭の場面で髭を剃り、靴を磨き、グルーミングのひと通りを終えてハウス(オートクチュール メゾン)の執務室へ向かう主人公の表情は自信にあふれています。アイボリーをベースにしたビクトリア調の内装、高級な中国茶、ウエイトのあるダブルブレステッドのストライプ・スーツ。すべてが、自身の美意識で統一されているからです。このような自分の美意識による生活全般の支配によって、これまでの彼の人生は順調に推移して来たに違いありません。しかし、物語ではそれが徐々に崩れていきます。時代が過渡期を迎えるのです。「シック(流行)、そんな下品な言葉を使うな」と、頑なに自分の美意識にこだわり、時代変化に対応しようとしない主人公。妻となった女性がもたらす、母親とは異なる異質な母性。この物語の核心にはひとつの時代の終焉と、次の時代を受け入れるのはいつも女性であるというメッセージが描かれています。これまでの家内制手工業によるハウス(オートクチュール メゾン)の運営を支えて来たのは主人公の姉であり、そこで働く女性たちでした。母親は彼にドレスの作り方を伝授しました。主人公は女性たちに依存しなければ生きていけない存在なのです。恋多き男であったピカソにも、女性のパトロネージュなくしては成功しなかったダリにも同様のことが言えます。女性の存在を抜きにして、’50年代の英国を語ることはできません。エリザベス女王が国王に即位したのは1952年。“鉄の女”の異名を持つサッチャーが政界に打って出たのが’50年代初頭。そして現在、EU離脱における難しい舵取りを担っている女性宰相メイ氏がこの世に生を受けたのも’50年代。時代の過渡期に登場し、世界に影響を与えるのはいつも女性でした。少なくとも英国において。こうした豪腕な女性に守られる存在こそが、ひとつのことに没頭する子供のような男たち、すなわちアーティストや職人です。映画の主人公のように、女性依存的な生き方が彼らの美意識を育んで来たに違いありません。母親の腕の中に抱かれているような柔らかく、心地よい感覚は創作の原動力になって来たのです。そして、ドレープの効いたスーツやジャケットの着心地は、ナーバスな彼らに女性に抱かれているような安心とリラックスを与えているのです。
製作:2017年|製作国:アメリカ|監督:ポール・トーマス・アンダーソン|音楽;ジョニー・グリーンウッド|配給:ユニバーサルピクチャーズ|アカデミー賞 衣裳デザイン賞