Column

スーツを着るのは誰ですか。

▇スーツは消滅するのか

これからの世代は、スーツを着なくなる。リモートワーク、ウイルス感染等を背景に、今般よく話題となるテーマです。ではスーツをはじめとした紳士服を着なくなるとしたら、オトナの男性は何を着るのでしょうか。ゴルフ・ウエアのようなスポーツウエア・・・。遊びに行く時に着るようなカジュアル・ウエア・・・。選択肢はそうたくさんあるものではありません。いずれも緩い服装で「身なり」という人の品性を印象づける役割を担えるかどうかは不透明です。スーツに取って替わる美学を持つ洋服が登場するのか。果たして、百余年の「成熟」をくつがえすイノベーションが洋服のジャンルで起こるのか。

▇マイノリティの服

テイラード・ウエアが私たちを魅了する要因のひとつに「成熟」があります。「成熟」とは限られたオトナの人々にのみ作用するプライベートな文化であり、“これからの世代”といった従来の団塊マスで括られる人々の流行とは一線を画するものだと考えます。ですから、テイラーで仕立てる人たちはきわめて少数派に属することでしょう。その趣味性においてはたとえ旧くから続く定番アイテムであっても、風変わりなものとして位置づけられます。そもそもテイラード・スーツというモノは、マイノリティの洋服だったはずです(注文服となるとさらに少数派)。所得人口分布でいえば、上層の少数派。何しろ、二次大戦前なら、スーツを着て働くホワイトカラー人口が全体の2割にも満たなかったのですから(ほとんどが農業就労人口)。

▇ 脱工業化社会の予感。

お洒落で富裕なホワイトカラーのビジネスマンを描かせたら、圧倒的な力量を見せてくれるA.ヒッチコック。彼の作品「北北西に進路を取れ(1959年)」には、時代を読み解く上質なメタファー(隠喩)がセットされています。たとえば、主演のケーリー・グラントがコーン畑で農薬散布の軽飛行機に追い詰められるシーン。見事なスーツを着た彼が場違いなコーン畑の中を逃走する数分間。泥だらけで土埃にまみれたケーリー・グラントのおびえ逃げまどう姿に表現されているのは、工業化社会の限界と抗しがたい大地への帰属ではないでしょうか(何と50年代末期にすでに)。極上のスーツとは不釣り合いな大規模農場の上を旋回する無言の軽飛行機。工業化社会のメタファー(隠喩)としての幻想的な表現が、皮肉にも彼のスーツ姿をリアリティのあるものにしています。さて、冒頭でお話しした「スーツを着なくなる世代」という着眼はややナンセンスなのかもしれません。紳士服市場とは、戦後の人口急増とホワイトカラーの急増が市場を確立させたもので、社会の構成員としてスーツを着なければならない人たちが減っていけば否応なく(志向に関係なく)消えていくものです。ですので、ポストコロナの今後が脱工業化社会とオーバーラップしていけば、「環境」「自然」「人間」といった概念を共有するでしょう。それらと密接な関係にあるのが、自然素材を人間の手で一点一点仕上げる服づくりの再評価です。したがって私たちが今議論あるいは注視すべきは「洋服の市場」ではなく、より根源的な「人間の進む方向」であり、ビスポークという行為は、その答えを識る静かな対話だと思うのです。