有名な逸話だからご存知の方も多いでしょう。アップルの創業者スティーブ・ジョブスの服装にまつわる話です。彼は新製品の発表会となると、必ず黒のタートルネックにリーバイスのジーンズ、主にニューバランスのスニーカーを着用して登壇するのは良く知られていることです。いわば、このスタイルは彼のトレードマーク。だから、衆人からはカジュアルな服装が好きな人だと思われて来ました。
しかし、実は、100着以上のタートルネッを揃え、ジーンズも穿き込んだものをスタイリストに数十本も用意させ、世間が注目する製品発表のステージでは徹底してそのイメージをキープすることに熱心でした。ちなみに、彼が投資家や銀行筋の人間に会うときは、ベーシックなスーツの着用を常としていたのです。
自身で思い描く服装を趣味性で捉えるか、ビジネス戦略のツールとして捉えるか。スーツを注文するときに、目標や課題を設定しその達成・解決を盛り込んだら、仕立て上がりはどうなるでしょうか。注文仕立てのスーツを考える場合、スティーブ・ジョブスが盛んに取り組んだような、自己イメージの戦略的展開およびセルフプロモーションは決して珍しいものではありません。むしろ、注文服だからできる取り組みとして、その人のイメージを決定づける効果があります。
たとえば、完璧に仕立てられた正装のモーニングを注文する際に、スポーツウエアを着ているかのように軽やかに踊ることができる、という課題設定をしました。仕立て上がったのは、動きやすさの工夫をこらしたフレッド・アステアのモーニングです。以後、正装で軽やかに踊るスタイルは彼のトレードマークになりました。
スーツやタキシード、トレンチ・コートなどを用意するにあたって、小柄な体躯でも、大柄な俳優と伍して負けない風格を醸すことを目標としたのは、ハンフリー・ボガードでした。以後、小柄には見えにくいトレンチ・コートを着こなす男らしいイメージの獲得に彼は成功しています。
ハリウッドの大スターという特殊な事例に限らず、一般のビジネスマンでも注文時の意向次第で、自身のキャラクターをコントロールすることができます。たとえば、誰もが1着はお持ちのネイビー・スーツ。真面目なビジネスマンの記号のような存在です。それを、ラス・ベガスのシンガーのようにも、またダンサーのようにも装って見せることもできるのです。
一般的なネイビー・スーツのイメージは、世の中に流布された固定観念であり、決して現実との整合性があるわけではありません。バスケット地、かすかに柄が織り込んである変わり織りのネイビーなど、意表を突いた服地の選択。ネイビー・スーツにあって、あえて地位や職業を想起させないカッティング。お試しになれば、ネイビー・スーツでも多様・多彩な切り口があることを実感できるに違いありません。より高度な洋服のオーダー(真の意味でのビスポーク)には、こうした社会通念の裏をかくセンスや戦略性を楽しむ奥座敷が用意されているのです。