「バタク日比谷」の前を東西に走る街路があります。日比谷公園から旧築地市場へ抜けるおよそ1.2kmの道のり。銀座の中心を貫く幅約9mの都道。外堀通り面した帝国ホテル東京からこのストリートは始まります。日比谷公園を背に歩くこと2〜3分で「バタク日比谷」が左手の視界に入ります。通りの名は、「みゆき通り」。銀座の歴史を彩るストリートであり、日本の服装文化・風俗を語るうえで欠くことのできない街路のひとつです。
▇ 江戸湾の入江で。
江戸時代の初頭、「バタク」がある日比谷界隈は湿地帯と江戸湾の入江(日比谷の入江)で構成されており、平川(現・神田川)の河口となっていました。この江戸湾から現在の日比谷周辺にまで到達していた入江を埋め立てる公共事業が、江戸の都市づくりの基本になったと言います。江戸後期の古地図を見ると、武家屋敷の間を縦横に走る道などが、現在とほとんど変わらぬ配置になっているのには驚かされます。その中のひとつである「みゆき通り」も、江戸後期に現在と同じルートとレイアウトがほぼ確定されていたのです。明治天皇の治政下になると、築地にあった海軍兵学校や海軍大学へ天皇が公務等で出向く際、常時通る道として「みゆき通り」が選定されています。以前は「山下通り」と呼んでいましたが、「御(天皇)」が「行く」=「御幸」=「みゆき通り」の呼称に変わっていきました。当時より文明開化のトレンドを牽引する界隈として、ハイカラなショップが軒を連ねる場所に数えられていました。というのも、「みゆき通り」と「銀座通り」と交差する街路には「恵比須屋」「布袋屋」と言った高級呉服店が出店し、日本橋と並ぶファッション・ストリートの様相を呈していたからです。
▇ 3カ月のファッション・ムーブメント。
高級呉服店が並んでいた「みゆき通り」が、ふたたびファッション・ストリートとして脚光を浴びるのは、戦後の高度経済成長期まで待たなければなりません。まだ男がお洒落をするなんてけしからんと言われていた時代。VANがデザインした日本的アイビー・ルックを着る都心の高校・大学生が、日がな一日「みゆき通り」を徘徊している様子をメディアが大々的に喧伝したのです。彼・彼女たちは「みゆき族」と名付けられ、時代の寵児のように扱われました。‘64年の夏季に顕在化したためか、バミューダショーツや半袖シャツなどのラフなアイテムを着た彼・彼女たちはその年の秋には姿を消します。先の東京五輪を前に行われた首都クリーン活動の一環として、警察による一斉補導が実施され、瞬く間に銀座から追い払われてしまいました。しかし、そのスタイルと精神は日本全国に波及し、「みゆき通り」詣(もうで)が地方に住むアイビー・ルックの信望者の間で続いたと言います。
▇ みゆき通りの老舗ホテルとビスポーク・テイラー。
この3月、「みゆき族」のシンボル的存在となっていた「テイジン メンズ ショップ(テイメン)」の閉店情報が新聞やSNSを通じて発信され、世間を驚かせました。当時の若者はいまや70歳代以上。もちろん今も、「みゆき通り」の散策を楽しむかのように、この歴史のある街路をそぞろ歩いていらっしゃいます。現在、「みゆき通り」は銀座・日比谷の再開発によって大人の品格が薫るエリアへと、街路のあり方をさらに洗練させようとしています。その最終完成形を担うと目されているのが、「バタク日比谷」の真向かいにある国内屈指のホテル「帝国ホテル 東京」の全面建替え(2036年完成予定)です。3年前に完成した「東京ミッドタウン日比谷」による街の活性が、老舗ホテルのフルリニューアルを経てどのようなカタチで仕上げられていくのか。この街路でビスポーク・テイラーを営む「バタク日比谷」としては、この街の品格にふさわしい存在であり続けながら、お客様と一緒に大人の街の変化を楽しんで行きたいと思っています。▇